| ・本作の「ダンス」について |
5月14日(水)
昨日は歌のことについて少しばかりふれたが、実は数日前からダンスの稽古も始まっている。振付は、役者として『ツグノフの森』にも出てくれた杉浦くん。今回は振付師・ピエール杉浦としての参加だ。
彼の振付は劇団「bird's-eye view」の作品の一つで見ており「へえ、そういう才能があるのか」と記憶していたし、実は『ツグノフの森』でフラッシュバック的に登場するダンスも彼に振り付けてもらっていた。
G2版『A Midsummer Night's Dream』を企画するうえでダンスはちょっと変わったものにしたかったので彼に発注したのであるが、この数日の振付を見させてもらって「うんうん、変だ。良いな」と満足している。
確かめたわけではないが、彼はたぶんダンスの基礎訓練はうけていないのではないか? イデビアンクルーの井手さんと同じく、カウントで振り付けるタイプではない。井手さんはダンスを教える先生でもあるので、独自のストレッチやワークショップのスタイルを持っておられるが、ピエールの場合は「では、軽く準備体操をやります」と号令してやり始めた体操が、よくあるベタな水泳前の準備体操だったので、ちょっと(悪いけど)笑ってしまった。
だが、それゆえに、普通の振付師とは全く違うユニークなものができあがる。均等に訓練された肉体と比べるとフィジカルな発想の仕方が根本的に異なるのだ。
この現場では、陰山泰さんはじめ音楽やダンスに強い人もいるので、「それってカウントではどうなっているんですか?」と訊かれることが多い。そういう事情もあって、ピエールもカウントで伝えようと四苦八苦しはじめているが、僕としては井手さんのように「カウントは数えないでください」くらい割り切ったことを言っても良いんじゃないかと内心稽古を見て思っている。口に出して言うと役者が困るので口には出さないが。(むしろカウントを数えてあげてたりして)
芝居の稽古のほうは、今日でひとつめのクライマックスとも言える3幕が終了。いよいよ明日からは難所の4幕へ突入していく。さて、ここからが正念場だ。
【『A Midsummer Night's Dream』の場割り】
この作品は5幕9場構成となっている。英語で書けば5つのACTと9つのScene。が、これもどうやら便宜上、後付けでふられたナンバーらしい。昔の戯曲の形式は5幕と相場が決まっていたらしいので、場割も何も書かなかったシェイクスピアのかわりに、出版社の人間か誰かが5幕にふりわけて番号をふったという説がある。(ちなみにハリウッド映画は観客にはわからないが大抵の作品が3幕で書かれている)
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| ・本作の「歌」について |
5月13日(火)
「A Midsummer Night's Dream」といえば、歌に踊りがつきもの。
原語の台本にもsing and danceって、ト書きが書いてあるものね。(シェイクスピアってほとんどト書きがない。一説によれば本人は全くト書きを書いておらず、数少ないト書きも後から書かれたものだというからこれだけではなんとも言えないが)
そこで「歌を聴きたいなーっ」と思える役者を入れるべく、神田沙也加、樹里咲穂、コング桑田、菜月チョビらに出てもらうことにした経緯がある。神田、樹里、コングの歌に関しては説明は不要だろう。チョビちゃんについて少しふれよう。
「劇団鹿殺し」[1]を観劇するとき、密かに僕はチョビちゃんの歌を楽しみにしている。歌が少ないと楽屋へ行って「今回は歌少ないよ」と文句を言うほど。彼女は照れて「みんなからは歌長いって言われてるので……」「いやいやもっともっと歌って。ミュージカルにしちゃっていいんじゃない?」
なにしろ彼女との出会いは、彼女らの新宿での街頭ライブをたまたま通りがかって聞いたのが最初。(その割りにはそれ以来ライブには行けてないのが残念ですが)新感線が『IZO』で菜月チョビの歌をバックに使っていたのを聴いたときには「やられたっ!」と思いながらも、歌に聴き惚れて少し台詞(だか字幕だか)を聞き逃したりしてしまったほど。
今回、実は音楽の製作が後回しになっていて、今のところチョビちゃんの歌声は稽古場では聴けてないのですが、聴けるようになったら、またこの日誌で報告するのでお楽しみに。
さて、そんな中で真っ先に稽古場での歌デビューを果たしたのが、我らが山内圭哉である。
基本、音楽はいつもお世話になっている佐藤史朗さんが手がけるのだが、今回は特別参加で、山内圭哉に2曲、鹿殺しのオレノグラフィティに1曲、曲を書いてもらっている。
その圭哉の1曲目ができて来て、今日のお披露目となったわけだが、どうも私は個人的な趣味を舞台上に乗せたがる性癖があり、「痛くなるまで目に入れろ」以来4年ぶりに圭哉にギターを弾いて自ら作った曲を歌ってもらう場面がある。
その場面は……いや、これだけは隠しておこう。観に来たときのサプライズ。格好良くギターを弾きまくるのに、なぜか大笑いできる仕掛けを用意してあるので楽しみにしておいて下され。
^[1]【劇団鹿殺し】
2000年菜月チョビと丸尾丸一郎で旗揚げ。テーマは「老若男女をガツンと殴ってギュッと抱きしめる」。その他詳細はこちらのオフィシャルサイトへ! |
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| ・続・修羅場 |
5月12日(月)
もともとは、デミ(山内)とヘレナ(出口)そして、ライ(竹下)とハーミア(神田)の二つのカップル。なのにデミ(山内)が、ハーミア(神田)に横恋慕したために、そのバランスが崩れ、おかしなことになっていく。そして惚れ薬のために再びデミ(山内)はヘレナ(出口)の元に戻ってくるが、もはやヘレナには悪質な悪戯としか思えない。この状況にハーミアも困惑……。
と、ここまでは、男性主導の恋の物語だが、ここからは一転して女同士の戦いに転じてくる。この女同士の修羅場、神田沙也加も出口結美子もマジでガチンコ勝負を演じていて実に気持がいい。手加減なしだし、二人ともシェイクスピアの長台詞を全くものともせず、私のネチネチと細かい演出に軽々と応えてくれる。
そしてなによりも、昨日も書いたが、二人とも役を演じる以前に素材として本当に素晴らしい。二人とも天才的なコメディのセンス(芸人のそれではなく、役者としてのね)を持っているのはもちろんのこと、例えば「我が身をすぐ悲劇のヒロイン扱いしがち」なハーミアを演じる神田は、キザな台詞もキザに感じさせない。臭みがないのだ。「自分が絶対に愛されないはずがない」という信念が嫌味なくギャグになる。ともすれば「爽快さらさら」オンリーになりがちなキャラの持ち主なはずが、「ちょい泥」もしっかり出せる。これはもうハーミアにうってつけの素材。そこに彼女なりのこれまた「さらっ」と爽快な努力がしっかりと土台を固めている。彼女の努力は近くで見ていて「汗臭さ」を感じない。気詰まりしないのだ。
対する「根性がねじまがってしまっている」ヘレナを演じる出口結美子は「挫折」を重苦しくなく表現できる。神田よりも一回り年齢が上の出口は、それなりに実人生で苦労も経験してきており、それがやはり芝居に滲み出るのだが、そこに実人生でも天然ボケな彼女のテイストが加わると、不思議な空間がそこに生まれる。異次元に引き込まれそうな、見ているものに平衡感覚を失わせるような妙な(敢えて妙と表現させていただく)魅力がある。ヘレナは恋人の中でもかなり長台詞の多い役だが膨大な台詞の量に気後れしているそぶりが全くない。そういう意味では安定しているが、良い意味でも悪い意味でも芝居がひとところにはいないから、稽古中、カンパニーのメンバーが飽きることがなくて楽しい。
この二人の女優に負けてはならじと山内圭哉と竹下宏太郎の二人の男優も、早くもエンジンがトップギアに入りつつある。実に楽しみな場面である。
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| ・ただいま修羅場中 |
5月11日(日)
確か日曜日から始まった今回の稽古。ということは今日で二週目に突入である。いよいよ三場、恋人たち4人の愛憎入り乱れる修羅場のシーンだ。子煩悩な親バカ発言のように聞こえるかもしれないが、デミートリアス=山内圭哉、ハーミア=神田沙也加、ヘレナ=出口結美子、ライサンダー=竹下宏太郎の4人の作るこの修羅場は、日本のシェイクスピア喜劇にある種の革命を起こしてしまうかもしれないと思った。くり返すが、子煩悩な親バカ発言かもしれないけれど。
今回の私のテーマは「この修羅場を決して魔法のせいにしない」
確かにストーリー的にはパックの「惚れ薬」[1]の使い方の失敗が原因だが、魔法にかかったからであって心変わりは俺のせいじゃない。という芝居ではつまらない。現実世界だって簡単に男と女の気持ちが急に変わってしまうことは普通にある。当事者にとっては悲劇だが、まわりからすればこれほど面白いゴシップはない。しかもその現場をのぞき見ることができたら?……どんどん覗き見に来てください。来月、劇場で堂々と修羅場を展開しますから。
冒頭でハーミア(神田)を奪い合っていたデミ(山内)とライ(竹下)。ところが恋の魔法で二人ともハーミアへの愛は失せ、ヘレナ(出口)を愛するようになってしまう。もちろんハーミア(神田)は目の前の出来事がにわかには信じられず、ヘレナ(出口)は愛するデミ(山内)の言葉をからかいだと受け取ってしまう。
まずは見せ場は男二人にある。今まで別の女が好きだったはずなのに、手の平を返したように新たな女をくどき始める。ここに男の滑稽さがあり、それを信じない女の確かさと憐れさもある。私が個人的に好きなのは、お互いにかつて好きだったハーミア(神田)を押しつけ合う場面。これね、400年前に書かれているんだけど、今の感性にまったく反してない台詞なのね。今までの訳は少し飾り言葉が多くてこの男女の本質が見えなかった。過去の芸術としてのシェイクスピアならそれでいいんだろうけど、今の日本に上演される劇としては「しょせん英語の飾り言葉など日本語に置き換えるのは無理がある」という勝手な信念のもと、今の男女と変わらぬシェイクスピアの感性をなるだけ生かすべく、今の男女の言葉に置き換えてみた。
そして、それを演じる4人が素晴らしい。400年前から変わらぬ愚かな男女の気持ちのズレを、くっきりとクローズアップする芝居。「朗々」と台詞を言うだけに終わらせず一言一句にしっかりとしたフックと、どすんと後で効いてくるボディ・ブローがある。
山内圭哉に至っては彼の台詞の間だけではない。他の役者の台詞中もそのコミカルなリアクションが見逃せない。同じPiperのメンバーである竹内宏太郎とのキャラクターのメリハリも効いている。
そして後半は、女優二人の修羅場へと変化を見せる。ライ(宏太郎)の心変わりがヘレナ(出口)のせいだと思うハーミア(神田)、デミ(山内)とライ(竹下)が自分を口説くのは、ハーミア(神田)が仕組んだ悪戯だと思うヘレナ。
二人は、罵詈雑言の嵐をお互いにぶつけ合う。ここ二人ともふっきれてていいんだな。稽古してみて、神田沙也加がいかにハーミアを演じるのに適した素材であるか、出口結美子がいかにヘレナを演じるのに適した素材であるかを確信した。そしてお互いが適しているが故に、この二人のかけ算はある種の奇蹟を生み始め……。続きは明日書きます。
^[1]【パンジーの魔法】
キュービッドの恋の矢が落ちたことで不思議な魔力を持ったパンジー。その汁を眠っている人のまぶたに絞ると起きて最初に見たものを好きになってしまう。妖精の王オーベロンは后ティターニアをやりこめるために悪戯好きな妖精パックにそれを取りに行かせる。
が、デミートリアスがあまりにヘレナにつらくあたるのを見て、ヘレナに同情し、デミートリアスの目にも絞るようパックに命令するが……。古典的な喜劇の構造がここにある。 |
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| ・パック |
5月10日(土)
「A MIDSUMMER NIGHT'S DREAM」というタイトルは、かつて「真夏の夜の夢」と訳された。その後「MIDSUMMER」は夏至のことであるから、真夏はおかしいだろうという理由で「夏の夜の夢」と改題された。でもねえ、「MIDSUMMER」の響きがタイトルから無くなってしまって、私としてはなんだかさびしいものを感じていた。かといって「夏至の夜の夢」もなんだか違うし。
迷ったあげく、今回は自分で翻訳するぞという気概も込めて原題のままにすることにした。だが、なにかにつれて関係者はタイトルを口にしなければならない。このちょっと長めのタイトルを稽古場で口にする人間は私も含めて誰もいない。ちなみに私はこの日誌でも書いているが、「夏夢」と呼んでいる。
「夏夢」といえばパック。
どうやらこのイメージが定着したのは、日本においては「ガラスの仮面」の影響が大なのではという俗説がある。私も新谷ちゃんが稽古場に持ってきてくれたので、初めて読ませてもらったが、これは傑作だと思った。特にパックの軽やかな動きを身につけるために、三方向から野球のボールを投げ、音楽に合わせながらそれを避ける練習の場面は、声に出して笑わせてもらった。
そこで、実際にこの練習をやってみることにした。パック役の植本潤ちゃんを他のみんながぐるりと取り囲み、3つのボールをみんなで投げ、それを潤ちゃんが避けていく。実際やってみたら……あまり面白くなかった。
さて、そのパックという役。ラストの挨拶の台詞[1]から「シェイクスピア自身が演じたのだろう」と言われている。最後の挨拶はわかるとして、なぜこの役を作者が? という疑問は、翻訳中には全く解決しなかった。だが、稽古場での植本潤ちゃんを見ていてわかったような気がした。
自由なのである。この役。
設定からして縛られない自由さがあり、劇構造的にも、自由に遊べる位置にあるんだなと痛感した。作家が自分が作った劇空間に縛られていてはつまらない。自分の作った構造を自分で壊していく快感をシェイクスピアは味わっていたのではないか。実際、潤ちゃんも自由気ままに演じていて気持ちが良い。
今日は、パック登場から2幕いっぱいを立ち稽古したが、まあ潤ちゃんの動くこと動くこと、身体も台詞のスピードも「ガラスの仮面」のパックを凌駕する勢い。こっちの想像力を逞しくすれば、CGも顔負けの動きに見えてくる。そして何度くり返して稽古しても息があがらないのは凄い。けっこうな年齢なのに。
「よく身体が動くね」と潤ちゃんに声をかけると、「こんなつもりじゃなかったんだけどね」と苦笑していた。もっと「静」なパックをプランしてたはずが、いざ稽古場でやりだしたら身体が動いてしまうらしい。ま、確かに「物書き」であるシェイクスピアがそんなに運動能力があったとも思えず、彼も「静」なパックを演じていたのかもしれない。だが、潤ちゃんのスピーディな動きが目に心地良いのも、演劇というものがもともとフィジカルなメディアであるというゆえんだろう。
^[1]【ラストの挨拶の台詞】
職人たちの芝居も終わり、祝祭劇のラストのダンスや歌も終わり、最後の最後、舞台上は単なる狂言回しだったはずのパックただ一人となって、結びの口上となる。その締めの台詞が「And Robin shall restore amends」ロビンというのはパックの本名で(パックは愛称)そのロビンの名において、今回の埋め合わせは近い将来必ず致します。つまり、次回作では頑張らせて頂きます。というようなことを言っているところからして、パックは作者であるシェイクスピアが演じたのであろうという説がある。 |
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| ・関西弁の効用 |
5月8日(木)
いやあ、今日の稽古の後半には興奮した。関西弁でのオーベロン(コング桑田)とティターニア(樹里咲穂)の台詞の大応酬は「お見事」の一言に尽きた。爆発するスピード感と疾走するグルーヴ感っていうの? 側で聞いていたスタッフも思わず爆笑に引き込まれていた。(普通はスタッフはあまり稽古場で声をあげて笑ったりはしないんですよ)
2幕の冒頭、妖精の王オーベロンと、王女ティターニアの口論の場面である。長台詞の応酬[1]で、役者としては見せ面なのだけれど、喜劇なのにこの箇所はコメディ要素が少なく、見る側の観客としては正直あくびの出る場面だ。
ところがこの二人のやりとりときたら、「退屈」なところなんて微塵もない。見飽きるどころか「もっともっとやって欲しい、短くてもったいない」とすら思えるほど。今日の稽古で、シェイクスピアの台詞を一部のキャラクターだけ関西弁に翻訳したことについての手応えを感じることができた。
実はこれは翻訳中の思いつきというか衝動で、山内圭哉演じるデミートリアスの台詞を関西弁でふと書いてみたところ、バッチリ「はまった」のだ。なにしろ冒頭でデミートリアスはヘレナを罵詈雑言でけなしまくる。下手をするとそれはただ悲惨な場面となり笑いなど起きない危険がともなう。ところが関西弁を使うと、いとも簡単にそれが笑いに転化される。関西弁は基本、悪口ベースなので、罵詈雑言のパワーは増すのになぜか響きはマイルドになるという不思議な効果がある。
それ以外にも、関西弁には「翻訳もの臭さが無くなる」という作用があることが今回やってみてわかった。
日本という国には「翻訳もの口調」が存在する。日常では決してそんな言い回しはしないのに、洋画の字幕や、吹き替えなどで登場すると違和感を感じないというアレである。ところが関西弁にはそれが存在しない。関西弁でしゃべるジョニー・デップとか見たことないでしょ?
標準語に訳するとどうしても元の英文に引っぱられて翻訳もの口調になりがち。それをさらに関西弁に翻訳しただけで、関西弁には翻訳もの口調が存在しないゆえに、今の日本で日常に交わされている会話に(まあ方言だけど)ちゃんとなるのである。
このことで、400年前に書かれた言葉が、今の日本に生き生きと蘇ってくる。どんなに長台詞であろうと、飽きることはないという効果が生まれる。
冒頭に書いたコング桑田と樹里咲穂の台詞の応酬。ぜひ本番で期待して頂きたい。
^[1]【ティターニアの長台詞】
2幕1場でのティターニアの長台詞には37行という途方もないものがある。A MIDSUMMER NIGHT'S DREAM全編を通して一番長い。これはオーベロンが喧嘩をふっかけるからそのために人間界はこれだけの災いに襲われているんだ。というその災難を並べた台詞。G2解釈では、これはすべてシェイクスピアの仕掛けた時事ネタで、今であれば、妖精の王と女王が「私たちが喧嘩したために、オゾン層が破壊されて、原油価格が高騰し、ミャンマーはサイクロンに襲われ、ねじれ国会に国民は憤り、オリンピックの聖火はあちこちでデモに遭う」みたいなことを舞台上に突然持ち出す面白さと同じ。今回の舞台では一部、今の時事ネタも入れる予定なのでそれもお楽しみに。 |
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| ・「平成の藤山寛美」とは |
5月7日(水)
「平成の藤山寛美」とは誰が呼んだのかは知らないけれど、関西ローカルの雑誌の誌面にその文字が躍っていたのを見たときには「山内圭哉にぴったりの称号だ」と大納得した覚えがある。間違ってもらっては困るのは、だからといって藤山寛美に芸風が似ているということではない。平成に入ってから藤山寛美級に面白い喜劇男優は誰や? と聞かれたら山内圭哉しかおらんわな、と納得するということである。コメディに対する先天的なカン、台本の流れや演出や他の役者の芝居を瞬間的に掴む状況判断力、空気の感じ方、行くときはどこまでも暴走するそのやり口。うーん、うまく表現ができない。藤山寛美氏と圭哉の芝居を評論しようにも私の文章力がおっつかない。
理屈よりも一目瞭然なのは先月まで上演されていた「ガマ王子VSザリガニ魔人」[1]での竜門寺の「泣き」の場面。あれを一目見ていただければ、まさに平成の藤山寛美を思わせる名演技だと誰もがご納得いただけるであろう。しかも、演出家としては是非を問われるが、あそこだけは「アドリブOK」の場面なのである。作家もト書きで「叫ぶように泣く竜門寺」としか書いていない。つまりは圭哉のセンスだけで突っ走る数分間なのだ。(東京公演ではこれが5分以上も演じられ、ダレるどころか観客席を爆笑と興奮と涙の坩堝に巻き込んだ)残念ながらリリース予定のDVDは、そのアドリブがこなれてくる前のものだが、それでも充分に堪能できる。上演を見損なった方はぜひDVDを。
その圭哉を迎えての今回の『A MIDSUMMER NIGHT'S DREAM』キャストのメインクレジットも山内圭哉。シェイクスピア通は「ならば山内圭哉がオーベロンか? シーシアスか?」と言うだろう。
けれど今回は「いまの日本で大爆笑を起す」ための夏夢。原本を読んだ時にそれを実現するための「核となる登場人物は実はデミートリアスだ」と直感した。この物語での騒動はパックが巻き起こしたとするのが定説ではあるが、私はすべての騒動はデミートリアスが巻き起こしたのだという解釈で翻訳・演出を進めている。
しかもデミートリアスという役は「ぶちこわしてそれを笑いと転ずる」ことを才とする圭哉のオリジナリティーとも一致する。しかし、この作品を上演したカンパニーとしては初の試みではないだろうか? デミートリアスを演じる役者が座長というのは。
奇策とも思える作戦だが、まだ数日しか経っていない稽古場の様子を見ていると、奇策などではなく、正攻法の香りすら漂っている。
さらなる奇策とも思える作戦がある。デミートリアスの台詞はなんと関西弁で翻訳されているのである。それが破壊力をさらに倍にしているのだが、シェイクスピアを関西弁で翻訳していることについては、また明日。
^[1]【「MIDSUMMER CAROL ガマ王子vsザリガニ魔人」】
2007年3月21日〜4月21日 東京・パルコ劇場ほか全国7都市で上演された。作・後藤ひろひと 演出・G2 主演・吉田鋼太郎 2003年初演 言及の場面はラスト近く、順平が死んだことを知り落ち込む竜門寺に、吉田演じる大貫が「涙を止める方法はいっぱい泣くことだ」とアドヴァイスした後。ト書きで「叫ぶように泣く」と書かれてあるところを延々泣きながら順平との思い出を語り出す山内圭哉の姿はまさに藤山寛美のアホぼんの姿と重なって見えた。 |
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| ・はやくも秘密兵器の紹介だ |
5月6日(振替え休日?)
世間はまだGWらしい。今日は何の祝日だっけ? なにしろ私のMacのiCalは休日になっていない。何か設定を間違えてるのだろうか。誰か教えて。
そういうわけでGWとは全く関係無く今日も稽古の私たち。
昨夜、遅くまで打合せだったというのに、今日は11時から衣装打合せ。今回はなぜか衣装ビジュルアル(宣伝ビジュルアルも)と音楽のキーワードは「スィンギン・ロンドン」だ。1960年代末から70年初頭にかけてのロンドンで流行ったカルチャー。詳しくは、G2演出メモを。(会員限定ページですけど)
衣装の原さんから上がってきたスケッチを見て思わずため息。うん、イメージ通り。みんな素敵にファッショナブル。特に妖精が画期的かな。今での妖精のイメージをくつがえすデザイン。壁に張り出されたスケッチを見て神田沙也加ちゃんも「可愛い〜」を連発していた。僕のお気に入りは植本潤ちゃんのパックの衣装かな。可愛く、かつ、お洒落だ。この衣装スケッチを見て今回は潤ちゃんだけに限らず男性全員に化粧をしてもらうことに決定。デヴィッド・ボウイやマーク・ボランのように。完成するのが今から楽しみだ。
さて、今日はG2の「秘密兵器」について書く。まあ秘密と言ってもチラシにも名前が載ってるわけだから、秘密でもなんでもないが、出口結美子と小松利昌だ。この並びを見て「ははーん」と思った人は「通」ですな。そう、去年の公演『地獄八景‥浮世百景』に出ていた二人である。(あ、ちなみにこの作品でバッカーズ演出賞なるものを頂きました。関係各位には御礼申し上げます)関西弁の芝居だったので「せっかくだから大阪の面白い若手を」と半ば実験的に加わってもらった二人だった。ところがこの二人が予想以上の働きを見せてくれた。小松は怪優・松尾貴史とひけをとらぬ爆笑・花魁合戦を展開し、出口は「平成の藤山寛美」こと山内圭哉とみごとな掛け合いを演じきり、そのあまりの天然ボケぶりが、圭哉の速射砲的なアドリブ突っ込みを誘い出し観客を沸かせた。いやー、いい素材なんである。若手と言っても二人とも確か三十代に入っているから、ぼやぼやしてられない、どんどん使っていかなきゃと思いつつ、一年半過ぎての二人揃っての起用。今回の芝居でもダークホース的存在だ。稽古初日からどう転ぶかわからない意外性に他の役者の笑いを誘いまくっている。
出口は、今回のG2版シェイクピア夏夢において、私が前半の超見せ場と踏んでいる「デミートリアスがまとわりつくヘレナをこき下ろす場面」でのヘレナを演じる。デミートリアスは圭哉だ。そう、あの「算段の平兵衛とその嫁」という組み合わせの再来だ。自分がこの場面を見たくてこの二人をキャスティングしたと言っても過言では……いや、そもそもこの二人の掛け合いが見たいと思ったのがこの作品をやりたくなったきっかけと言っても過言ではない。必ずや名場面ならぬ迷場面に仕上げるつもりなので、ぜひご期待を。
一方の小松は、職人チームのエース「ボトム」を演じる。もともと彼は大阪だけでやっていたプロデュース公演で、同じ『夏夢』のオーベロンを熱演していたのを見てその凄まじいまでのエネルギッシュな演技に惚れ込んで『地獄八景』に誘った縁。やっぱり奴の持ち味はエネルギー溢れる笑い。小細工は似合わない。カミソリとは縁遠いパンチだが、ボディに食らい続けていると大爆笑させられている自分に気がつく。
ところで今日の稽古で、小松が初めてロバの頭をかぶった時大いに稽古場が湧いた。あれだけロバの顔が似合う役者も珍しい。いや、誉め言葉ですよ。これ。 |
| ・ 「笑い」と「大外刈り」は似ているか |
5月5日(こどもの日)
いやはや、今日も稽古場で大いにみんなで笑った。笑顔はいいよねえ、やっぱり。でも、つくづく「笑う」って不思議な現象だと思う。
どういう時に人は笑うのだろうか? 長年コメディーを作り続けていると、なんとなくの「勘」というか「セオリー」的なものは蓄積されてくるが、だからと言ってそれはなかなか口で説明できるようなものではない。
ところが、それを口で説明しないといけないのが演出家の仕事である。つまり、ジョークのどこが面白いのかを説明するという、とんでもなく野暮なことをしなくてはいけない。つらいよ、これ。
でも楽しい仕事でもある。特に今回のように「笑い」の達人が集ったカンパニーでは。
敢えてざくっと言い切ってしまうと、「悲しい」とか「苦しい」とか「感動」とか言う感情に流行り廃りはない。人類普遍的に、親が死ねば悲しいし、お産は苦しいけど、子供が産まれたら感動する。けれど、今、バナナの皮ですべって転んだ人を見て笑ってくれる観客がいるだろうか。(ま、この表現はメタファーであって、実際、今それを敢えてやれば大爆笑ですけどね、これは『仮装敵国』[1]のケラ作品で実証済み)
普通に考えると「笑い」というのは古くなりやすい。
だから、シェイクスピアの悲劇は今上演しても素晴らしいものになりやすいけど、喜劇は「ん?」というものになりがちな危険をはらんでいる。
そういうわけで、今回は、400年前に書かれたシェイクスピアの台詞を、なるだけ作者の意図は変えないで、今の言葉に書き直し、いや、今の日本で笑ってもらえる言葉に書き直す作業をしたわけだが、台詞がそうなったからと言って、観客が笑うかどうかはまた別だ。
なにしろどんなに面白い台詞でも、言い方を間違うと笑えない。
じゃあ言い方を工夫したらいいのか? というと、そういう表面的なことでは失敗することも多く、結局は、「観客と完全にチューニングが合い、次の瞬間、それがズレる」という現象が起こらねばならない。そういう意味で、例えは悪いが「笑い」と「大外刈り」は似ているような気がする。あ、やっぱ例え悪いや、今のは忘れてください。
今日の稽古は、カンパニーを二つのグループに分け、前半は「職人たちの劇団」後半は「アテネの恋人たち周辺」で、今の感覚に物語のチューニングをどう合わせていくかというディスカッション。登場人物像をぐっと今の日本に近づけるにはどうしたらいいか? というのを考えながらの細かい読み合せ。
と、こう書くとね、なんか理屈ばっかりの退屈な稽古場だと思われるかもしれませんが、実際には、冒頭に書いたように、昨日に引き続き爆笑の連続。なにしろ役者みんなの元もとのキャラクターが面白いし、「笑い」に対する勘が鋭い役者がたくさん集まってきてるから、いちいち楽しいことが起きる。それはどんなことなのか?
それを書きたいのは山々なんですが、今日は稽古終了後に、音楽打合せ。22時30分までじっくりと話を詰めたので、ごめんなさい、くたくたなんです。私、24時には眠る人なので。明日以降で書きますね。今夜はお休みなさい。
^[1]【『仮装敵国』】
松尾貴史とG2のユニットAGAPE store2005年の作品。執筆陣に、本文でも触れているケラリーノ・サンドロヴィッチのほか、長塚圭史、倉持裕、土田英生、千葉雅子、故林広志、後藤ひろひと(以上、作品登場順)という「笑い」が書ける旬の作家が勢揃いした、コント・オムニバス。そのケラ作品中で、春風亭昇太がしこんだバナナの皮に松尾貴史が転倒するという場面で大爆笑が起きた。 |
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| ・稽古開始! |
5月4日(祝)
遂に稽古開始。この日が来るのが待ち遠しかった。なにしろ翻訳に半年もかかってしまった作品である。シェイクスピア様はやっぱ凄かった。そして自分の英語力の無さをただただ痛感する日々だった。
「今の日本で上演して、ちゃんと笑ってもらえる日本語台本に」を目指して、今までに見たことのなかった翻訳を。という苦行だった。本当に何十回となく逃げ出したくなった作業である。
でも、そうやって苦労の結果出来上がった台本は自分では密かに「面白いハズ」とほくそ笑んでいた。この判断が、独りよがりなのかそうではないかの結果は、稽古初日の役者による読合せで明らかになる。
一刻も早く役者に読んでもらいたい衝動を抑えて、まずは三十分ほど「演出意図」の説明。骨子は「どうすれば、400年以上前に英国で書かれた台本を使って、今の日本の客席を爆笑の渦に巻き込むことができるか」その詳細はメモってあるので、今後、この稽古場日誌でも発表していきたい。
さて、今日の稽古はその後、役者にも一言ずつもらった。その中でも今回の座長的存在である山内圭哉が「今やってるシェイクスピアってめっちゃおもろいらしいで。っていう評判が立つようがんばりたい。そのためには力を惜しむものではない」の挨拶にはちょっと目頭が熱くなった。この半年間はたった一人の戦いだったけれど、これから先は気心の知れた仲間がいる。なんと力強いことか。
そして、読合せ[1]。結果は大成功。稽古場は爆笑の渦。最初の読合せでこれだけ面白いんだから、これから1ヶ月稽古で詰めていけば、前述の「今の日本で上演して、ちゃんと笑ってもらえる日本語台本に」は達成されること間違いないだろう。
集まってきてくれた小劇場出身のコメディーの強者どもが面白かったのはもちろんのこと、敢えて特筆するとすれば神田沙也加ちゃんだ。芝居の腕前は今までの舞台で見てきたが、これほどコメディセンスがあるとは? しかも稽古初日でいきなりいろんなプランてんこ盛り。そのプランのほとんどが即、実戦で使えるという、これは嬉しい誤算である。
本日の稽古は、読合せ一回だけで終え、ほぼ全員で酒宴の席へ。
そちらも大いに盛り上がったのは言うまでもない。
^[1]【読合せ】
最近は「本読み」と呼ぶ現場が多いが、台本を役者が自分たちの役で読み上げる稽古は「読合せ」が正解。「本読み」というのは、演出家なり作家なりが一人ですべての台詞を、役者の前で読んで聞かせる稽古のこと。これは最近では野田秀樹さんがやっているらしいがそれ以外知らない。昔テレビの現場で「遠くへ行きたい」の老ベテラン演出家がナレーターを前に自分で読んで聞かせてたのを見たことがある。あれも「本読み」だ。 |
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